能の勉強をしようかな

賤民文学ということをもっと調べないといかん
どこがどう賤民なのかをよーく調べて明らかにしないと!
誰が賤民で誰が賤民じゃないか

  • -

なぜ賤民が資本家層にならなかったか
賤民は前近代的だと言われることがおおいが、
むしろ傍流、いやそうではなく遠流(おんりゅう)なのではないかとも思える。
だが、遠流と書くとふつうは刑罰、流刑のことだ。
遠流の目的地になって、人が運ばれる島、は遠いところにある。
しかし世界地図から見ればわずかな距離のところであることが多い。
また、船が難破して沈没するような島は選ばれないことが多い。
生かして遠くで生活させるというところに意味があるようだ。
生活を放棄させるようにはなっていないのだ。
賤民には生活をさせる、しかし賤民の生活をさせる、ということのようだ。
では賤民の生活とは何か。

  • -

どうやら欧米では、労働者階級(ブルーワーカー)が労働者的生活をする。
しかしそこに前近代をひきずってはおらず、近代的な都市や近代的な地方において労働者的生活をしているようだ。
ところが日本の賤民は、前近代的な地場において、近代的生活というところからは程遠いような生活を送る。
むしろ、賤民が驚くべき近代性を発揮して日本を引っ張っていってもおかしくはないわけである。
ところがその近代性が何かということになると、どこかの外国から選ぶという、選択の問題になる。
創造の問題にはならない。
これは別に賤民だけではなく、一般的にそうならざるをえないようだが。
上からの近代化とよく言われるが、横からの近代化と言ったほうがいいのかもしれぬ。
しかもその横は、かなり遠いところの横である。隣、ではありえないし、隣の隣でもないようである。
遠流は決して遠いところに流すわけではない。
あんまり遠いと目が届かない。
しかし、いかにも目が届かないところのありさまをありがたがったり、採用したりしたがるようである。
それを採用するというときには、採用時の利益が大きいと見込んだからであろう。
利益が大きいと見込んで始めることがらは、プロジェクトである。
国家自体がプロジェクトになって、国家が埋没するということがあるのかもしれぬ。

  • -

人間、人間とよくいわれるが、わけがわからない。
たとえば人間の権利、といっても西洋の人間のそれであることが多い。
どうしてそれが日本で、正しくて、目指されるもの、になるのか。
まあしかし、その面でいくと、生活をさせるというところは、西洋に言われるまでもなく日本は結構やってきたようだ。
ほとんどの人が、よほどでない限り、くいっぱぐれるということがないようにはなっている。