村上春樹作品において。「死神とダンス」、「骨をくだいたような白い砂」、、、とはなんだ?

どこの文化の話だというのだろう。
なぜ西洋文化においてしかでてこない「死神」を登場させるのだろう。ここは日本である。
「死神」など前はいなかった。
いっそ「妖怪」にしたらどうなのか、と思ってしまった。
だが、それをやると、妖怪と盆踊りみたいな話になり、読者がずっこけてしまう。
僕は彼の作品をコンテクスト依存テクストと思っていたが実はコンテクスト宣伝テクストではないかと思うようになった。現状の日本がアメリカと同盟関係にあり、アジア諸国に対してアメリカとの文化的融和を見せつけないといけないから、こうなるのである。
今の現状において、この種の文学がもっとも重要視されるのである。
この種の文学において、読者は文化的融和の習熟度テストをされるようなものであり、その分野の優等生であれば自然と嬉しくなってくるような文学なのである。
この種の文学が、西洋科学を学んだ人たちに概ね好評なのも、むべなるかなである。
そういう文学を書き続ける作家というのは、最終的には自国の文化が埋没ないしは過去のものとなることを望んでいるようにも見える。
こういった姿勢は、アメリカ側の思惑とも一致するし、過去の国民による敗戦に苦い思いを抱いている日本の上層部の人間たちの思惑とも一致する。

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「骨をくだいたような白い砂」とは、誰の骨なのか。
舞う砂のようになるということは、膨大な何者かの骨を砕きまくって回らないと、とてもそのような量は確保できない。
また、くだいたからって、白いとは限らない。
灰色の骨とか茶色の骨とかもきっとあるのである。
いや、そうじゃない。心象風景の話だ。ここはイマジネーションの話だ、と言われるかもしれない。
おそらく僕は、ここが「白っぽい」砂であれば納得したであろう。
whityとwhiteの違いの話である。
イマジネーションの上でのことなら、実際に白いというわけではなくて「白っぽい」、ならいいではないか。
ところが、日本語の「白っぽい」には優柔不断さや根拠のあいまいさや判断する主体の幼稚さが滲んでいるのであり、whityの意味では使えないのである。
whityに、そのようなあいまいさの要素はない。
whityは、white市のようなものがあるとすれば、その郊外にあるものである。よそのところや、white市の近くにある異界にあるのではなく、white市の近くで迷子になっているものでもない。
では、「白のような」であればいいではないか、と思えるが、白のような、なんて言わない。そんなことを言うと、「それって白じゃん!?」と言われるのである。
だったら「白い」でいいだろう、ということになり、たぶん「白い」になったのである。
造語にはなるが、「白しい」ならいい気はする。
「厳しい」とか「悔しい」とかの系列に色を加えてしまうのである。
だけど誰もそういう言葉を使わないから、一般性がない。
おそらく、馬鹿だと思われてしまう。
だったらシンプルに「白い」でいいじゃん、となってしまうのである。
まあきっと、日本文化が色に依存しているという面があり、その影響が強いのである。

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かれの作品で問題なのは、問題がなくなることである。
ということなのかもしれぬ。
様々な難題が、なんとなくやり過ごされるのである。
そこに小気味よさを感じる人が、きっと多いのだ。