黒い交際を排除する宣言

これに信用が置けない
近代刑法では、基本的にはどんな犯罪を犯した人であろうが社会復帰させるべきだという考えでいっているようだ(教育刑)。
ところが、かれらは一部の人たちを黒い人たちと決めつけ、これを排除しようとする。
しかも、黒いとされる人たちに対して詳しい調査をしていないし、する気などまったくない。ということは視聴者に対してどこがなぜ黒いのかという説明を一切怠っているのである。
広く見て言えるのは、日本の支配層は心の奥底では近代刑法に対して不真面目なのである。
徹底しようという気などさらさらないのだ。
不真面目とは、本音と建前、のことである。
すべての本音と建前は、単なる不真面目さから来ていると考えて間違いなかろう。
不真面目さに対するいいわけとして、しがらみや配慮などということがらが用いられることが多いが、それは現状を変えられないという心情から来ていることが多いように思われる。
現状というのが何かというと、大元をたどれば血筋の高貴低劣ということになろう。
それは過去を変えられないということでもある。
しかし、過去を変えられないと声高に言われ出したのは近代になってからであろう。
前近代において、過去は変えられないというより、よくわからなかったはずである。
なぜならある人の付近に過去の記述がないからである。
記述という問題がある。
記述者、というより記述装置。
それが近代戸籍であったりするのかもしれぬ。
前近代における戸籍は、単なる人頭の把握であったが、近代における戸籍は過去の記述という側面が強い。(戸籍調べ)
犯罪歴についてもそうである。
何をやったかということも大事だが、いつやったかということのほうが大事である。

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一部の人たちに一貫した黒さが求められているのだとしたら、それは構造保持欲求から来ているということである。
それは支配構造や利益構造を守りたい気持ちともいえそうだが、どうもそれだけでもない。

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近代戸籍に要求されるのは自動性である。(自動記述)
どうも自動車というものも、利便性というよりもその自動性が重要な気がする。
アクセルを踏んで距離を移動するというより、自動機関であるエンジンを回すことのほうが大事なのである。
そんななか自動を繰り返し続けるコンピュータがはやるのは無理からぬことである。