漱石における不満点はつきつめると、こうである

悩むくせに転落しない
悩みが転落行動に直結しない
そこにもどかしさを感じるのである
どちらかというと、苦悶して結局現状維持する人よりも、ひと思いに転落する人間を見てみたいのである
漱石における人間は鉄の板のようなもので下支えされており、絶対に鉄の板より下には行かない
で、その鉄の板というものは、どうやら世間なのである
ならば世間をちゃんと書いているかというと、漱石の恐ろしさの一つなんだが、一般庶民の心はほとんどわからないのにも関わらず、世間のことは余は痛いほどわかっているという態度を取る
一般庶民の心はわからないくせに、一般庶民のしょうもない行動は事細かに書いて満足げなのが漱石であるようにも見える
どうやら、漱石における世間と一般庶民とはほとんどなんの関係も持たないのである
世間というものが一つの抽象的条理になっているのである
この点で、ディケンズとは大きく違う
漱石は、共感力がいささか低いとも思えるのである
大量にインプットするという行為と共感力の高さというものが、果たして両立するのか考えてみる必要がある
漱石が描く人間は、こんなにおめでたい人たちが果たしているだろうかと思わざるをえない
漱石が描く人間がとる行動は、あまりにも倦怠を知らない
ふつうならとっくに飽きることを延々とやっていることに、グロテスクを感じるのである
いっぽうで三島由紀夫は、割と倦怠が書けるのではあるが、倦怠に対してキレてしまうところがあり、いささか性急なところがある
そう考えるとやはり谷崎潤一郎などは、倦怠について角度を変えたり話者を変えたりしてこまごま書けるんだが、残念ながら近代音痴なのでいまいちピンときにくい。そのぶん長持ちはするのかもしれんが。