古典文学を文法によって解釈するのもいいが

そこに現代からの古典文学支配という欲求が潜んでないか考えるべきだ
ほとんどただどりしてきた文法学上の実績を踏まえての文法理解だろうが、はたしてその文法学者は一流の文学者だろうか?
ひとつは、文学と他の何かの両立がきわめて難しいということかもしれん