共通体験なり共感なり、つまりは共同的何か

日本人特有の傾向がある
それは一言で言って「共同」である
ぼくはあらゆる作家は、「共同」リソースにただ乗りしてはいけないと思う
ならばぼくは日本人を突き放さねばならぬ
いきおい隔絶した人物を主人公にしてかれから体験を奪い取らねばならぬ
だがそうなると小説として成り立ちにくい
シチュエーションが特殊になってしまうのである
だがそれでもいいのではないか
特殊な状況を複数書き、そのうえで特殊でないものを浮かび上がらせる
これもひとつの手法である
いささか迂遠ではあろうが