今日気になったこと その1 (人形と折口、盗作と)

人形づくりの人(ただし文楽用ではなく人形劇用)が死亡。折口信夫の「死者の書」をモチーフにした人形劇を作った人らしい。ある放送局の三国志の人形劇か何かの人形も作ったのだとか。その人のDVDを赤川次郎が見て感動したとかなんとか。ある新聞で読んだ。私の家には折口信夫の全集があるから今度読んでみよう。折口信夫は大衆側の文学界から忘れられて久しいが、質量ともに最高水準だという予感がする。折口がホモセクシュアルだったか? 私にはそうは思えない。おそらく性同一性障害の文学に特化した形。わたしもそれを真似ようかと思うが、それほどの才能がないことに気づいて懊悩。嘔吐しかけたところで消化がいいことに気づかされる。身体健康にして友おらず。人は僕を分裂病だきちがいだという扱い。ひどい錯誤だ。これまでにされたことを倍返しにしたい欲求に駆られるが、復讐法のすぐあとに出来たのは賠償に関する法だったという法律に関する文章に触れたことを思い出して納得。金で払わせようとするのが正しい道順だ。しかしなんでも金に帰着させることで健全性が保たれるこの社会のおかしさを痛感する。そして性欲をラブと置き換えて微調整をはかる妙なアメリカ型恋愛調整術に嫌気がさす。憲法批判をしたいが、江藤淳の下手な猿真似といわれてしまうだろうと思い断念。しかし猿真似といわれないために江藤淳の著作を読まないという決断を強いられる。大家と言われている作家が多すぎて、それに関する専門家も多く、いちいちそれは剽窃、盗作だとわめきたててくることは容易に想像できる。それは著作権法遵守から来ている考えで、法に隷属している近代日本のスタンスから来ている。そして作家はすべて営利法人によって飯の種を与えられているので、営利法人に対する営業妨害だから剽窃、盗作はだめだという話か。学問の世界だとより厳しく剽窃、盗作はだめだといわれるが引用はいいとされるようだ。私から言わせれば引用こそ剽窃、盗作よりも悪い。なぜなら引用は誰にでもできるし、誰からも引用だとわかる。引用した箇所だけが完全に正しい箇所ということになり、引用元のテキストの正しさを証明することになる。よく言われていることがある。「孫引きはよくないよ」・・・これは引用はいいけど、孫ならだめだということだ。ああわからなくなった。どうせこの欄では適当でいいと考えてやりはじめたから適当でいいか。文学談義をしたいが人と種になる文学作品がない。「○○○」? 編集者ご苦労様としか言えない。