一神教と時制

一神教はゴッドオールマイティーが常におわすということであり、時制としては永遠、常態ということである。
これが仮に天皇制を考えるとしたら、天皇の生物学的一生において神になるということになる。
それは時限的な神ということである。
時限というものは、資本主義からくる発想である。
時限的な神となれば、資本主義的なみわざをやらねばならなくなりそうである。

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法が時間を気にするのはまあよろしい。
しかし、時間をまったく気にしないところにも法があるべきである。
その法が、道徳(ethic)であっていいのだろうか?
道徳といった場合に、古代道徳が観念できぬ。
道徳とは、専ら現在にしかない。
道徳の変遷がありえないことに気づくべきであった。
変遷するのはたとえば憲法であって、道徳自体は変遷しようもないのであり、それは常に現在的問題なのだ。
道徳というのはよして、慣習と呼んだらどうだろう。
だが、慣習には善悪の判断基準がない。
あるがままというだけである。
抵抗や抑制がないのであり、ただそのままであるのが慣習だろう。
慣習的禁止ということがありえるだろうか?
慣習的行為しかないのではないだろうか。
禁止と言わず不作為といえば、慣習的不作為ということになる。
だが、慣習とは行為である。
では、道徳は不作為か。
一方に慣習があって、これが行為であり、反対側に道徳があって、これが不作為であるとすると、行為としての慣習は割と継承されるが、道徳としての不作為がほとんど継承されがたいという問題が浮き上がってくる。
不作為を継承することは難しいのだろうか。