全体小説

いわゆるホリスティックな態度からくる小説と考えて良いのか?
そのホリスティックというのが、部分の自立を理解するのかそれとも、全体を構造把握するのか。
バルザックの小説は全体小説というのはまちがいなかろう。
これは構造からせりあがるものを明らかに書いている。
だからこそ近代小説の傑作を生んだといえる。
僕がいま気に入りかけているストリンドベリイは全体小説作家ではない。
かれは直感とひらめきによってある部分を切り取って羅列列挙している。
ここには構造への理解はさほどないのであり、告発と断片的スライドショウがあるのである。
僕は前からギモンなのだが、全体小説を書くためにはなんでもいいがひとつ体系を理解しないとだめなのではないだろうか。
しかし体系理解ということはひとつの妥協である。
詩人が体系を理解したら詩を書く必要はなくなるとも思える。
文学史に通暁した詩人、しかしそれは西洋では普通のことである。
基礎を固めた上での詩作、大いに結構。
ところが日本の詩人はそれをあまり求められない。
そうすると、大衆が拒絶反応を起こしてしまうのである。
だから僕も詩学への理解を隠さないといけない気がしてくる。