2010-04-20から1日間の記事一覧

「当てつけがましく茶の間から出て行った」

当てつけがましい、というときに出て行くとなると違う気がした。 当てつけがましい、はもっと小さな動作や少しのことばであるべきだと思う。 たとえば、当てつけがましくお茶をすすった、だと、面白い感じがする。 茶の間から出て行った、というと、あーあ、…

健康さ

健康さというのが 実はその場しのぎの その日暮しの 発想である 一生さえ健康でいられれば…… そこには 肉のうそぶく感じがする

Kさんの日本描写は駄目

色々読んだけどこういう結論に達した 「わたしだから理解しているのだ」というスタンスがどうも気に入らない 本当は理解してないとしか思えない 10あるうちの2〜3までを正確に表現する手法に行った方がよい 10あるうちの8〜9まで理解してる上での表…

読者・・・!

読者は性懲りもなく私の作品を読むかもしれない。 読ませてもいいのか? だが 読ませない作家というものはありえない。 読まれなければ作家ではないのだ。

まれびと

rarity のことなのか ethnicity のことなのか レアリティーだとすれば、時間的レアリティなのか、民族的レアリティなのか。 いや、民俗的レアリティか? 文学とはそもそも、レアリティの問題なのか? エスニシティとは民族的レアリティとも言える。 しかしそ…

若い頃は官僚性を帯びていたのに

折口さんの若い頃の写真は文学的貴族として、実質的官僚として、日本に君臨する気がありありだったように見える。 古代日本においては、文学者=官僚=貴族、であるように思える。 ところが晩年の写真は渋い笑顔のものばかりである。 一体なぜそうなったか?…

市ごとに美術評論家がいるという話

その市ごとに美術が独特の発展を遂げ、それに寄り添うように市ごとの美術評論家がいるという話が西欧にはあるようだ。 ところが日本は、そんなことはないと思う。 中央集権的なのだ。 評論家が、評論家である前に国家の官僚なのであるのかもしれぬ。 文化の…